生まれる前の、私の名前
私は体育館でする運動部所属だったから、
いつも体育館の上の窓のふちによじのぼって、友だちと色んな話をした
夏はそこからグラウンドを見たり、テニスコートを眺めたりしながら、
暑さのせいでほてった体をクールダウンさせていた
そうしながら今度は、いつしかおしゃべりがヒートアップすることもあった
その時の話で1つ、今でも時々考えることがある
「私は生まれる前、どんな名前で呼ばれていたのだろう」ということ
ものには名前があるということが不思議で、
もっといえば物の名前とそのものってどっちのほうが早く生まれるのだろうと
私はもしかしたら「人間10928734759696号」だったかもしれない
でもその名前は、誰がつけて、誰が管理するために呼ぶのだろう
その時の私には、漠然と神様なるものがいて、その人が私の生まれる家族を決める時に
「じゃあ『人間10928734759696号』はこの家族のもとに『人間10928734759697号(私の双子の妹)』と双子にして生ませれば?」と人間世界を管理していたのかもしれないと思ったものである
しかし今は、それと少し違う気がしている
私は生まれるまで名前がなくて、ただ生まれて親が私に名前をつけるまでは
本当に何者でもなかったのであろうと
『生まれる前の、私の名前』
それに関連して、思うこともたくさんある
人間は不思議だ
肌の色や目の色が違ってもお互いを「人間である」と認識している
犬という大きなくくりの中でも、コリーがいたり柴犬がいたりするのと同じなのかもしれない
(差別的な意図はまったくない)
では、何を持って向かい合う恋人を「人間である」と認識するのか
もっと噛み砕いて言うと、何があって何がなかったら人間なのか
人間にはしっぽがないから、もし私にしっぽがあったら、なんと言われていたのだろうか
こういう問は、頭のなかで考えている時に一番輪郭がはっきりしている
だけどそれをこうして文章に起こしていると、
文章にしようとする脳みそと、次々に浮かぶ疑問に答えを見つけ出そうとする脳みそが、
次第に両立しなくなってしまう
脳みそにある100%を文字にすることは不可能で、
文章に起こすと脳みそのなかにあって、文章化できない考えや思想は死んでしまう
それを死なせないためには、少しでも語彙を増やすことと
ああ、絵もかけたらもっといい
そう思うと、私は自分の絵の下手さを悔いるのだから
語彙を増やすしかないのだろう
それと、ウィトゲンシュタインの本を読んだ時、
ああ、なるほどやっぱりこういうことを考える人って多くいるんだなぁと
不思議の感に打たれていた私の心を少し救って、
それから少し、計算ドリルの問題を解く前に答えを見てしまった小学生の頃と
似たような罪悪感をなぜか、与えられるような気がした