思考の畔で

ニュースとか、生きていて思ったこととかなんでも、思ったこと書きます。無責任なことも言いますが、誰かの意見が聞けたら良いなと思います。

ざっくばらん に

自己の中でしか成立しない”系”の中に存在するものを、その世界として構築して、法則をもたせること

 

何を幸福と思い、何を不幸と思うのか

これは全て、後天的に学ぶものである

では、不幸も幸福も知らない人は幸せか?

 

 

世界は誰にも助けの手など差し伸べない、これは本当か?

自然は私たちに能動的な感傷をせず、そこにいるだけ

常に受動的で、私達とは一線を画したその線の中に(あるいは外に)いると思い込んでいる

もしも、私達が気付かないだけで、積極的に働きかけていて、

それを私達が、全て自分のせいであると思いこんでいたら

……それでも、大したことには変わりないのかもしれない

干渉であれ非干渉であれ、私達人間はそれに適応して生きてきたわけであるから

 

 

それぞれの国には必要な単語しか存在しなかったのだと、多言語を学ぶたびに思う

日本で単語・言葉が新しく作られるたびに、

ああまたこの世界は拡張したのだと思う

世界に言葉が存在するのではなく、言葉の中に世界が存在するのである

チューブみたいな言葉の中にみちみちと世界が満ちていくのを想像した

これはちょっと気持ち悪い、ソーセージみたいなものだろうか……

 

 

私の言葉は、人ではなく、ノートとお気に入りのシャープペンシルが聞いてくれるの

それだけでいいわ

 

 

時とは何か

なぜ人間に解けない問がいくつもこの世界には用意されているのか

ドグラ・マグラで示唆されたように

神がそこだけを解かれないように世界を制御しているのかもしれないと

時々思っては複雑な気持ちになる

そのたびに私は、営業に関する本で読んだ、

人間は誰でも自分で決めたがる、という話を思い出して、

通じるものがあるような気がする

 

『ざっくばらん に』

 

 

最近、2001年宇宙の旅の小説版を読んでみているのですが、

非常に面白くて、なんていうか二人が映画を作る過程もかかれていて

ああ、ステキな二人だなぁとおもう

宇宙というものに思いを馳せるととてつもない感情に飲み込まれそうになるので、

そこから逃げるのではなく、一歩踏み込んで行きたいとも思う

でも、あの宇宙に対するこの感情を何と名付けようか

ロマンと言う言葉は、この高揚感を指して作られた言葉だというような気もしてくる

 

 

ざっくばらん いち

 

 

オフィスビルの灯りの向こうに、夕焼けの空が広がっている景色が好き

 

 

今以上が欲しくて告げたはずなのに、

手にあったもの以上をなくしてしまった

こんなに誰かにとって一番でありたいと願ったことなかったよ

今までずっと、”嫌われなければいい”と思って生きてきたから

 

 

女の描く男と、男の描く男は全く異なるという気がする

男の描く女と、女の描く女もまた、全く異なる性別を有しているように見えると言わなければならない気がする

 

 

天気もファクターとしては重要だし、BGMもそう

そこにキャスティングされた男女は、空間と自身のキャラクターに

見合った台詞しか口にしないもの

ここに虚構と現実の差が生じるものか?

 

 

私はものの影響下に置かれやすい人間であると言わなければならない

 

 

どれだけ夢の中で人を愛しても、

そんな感情が自分の中に体感を持って湧き上がってくるとはとても思えない

この間接的(あるいは、誠に直接的だが)ば気持ち以外を

味わえないことは誠に不幸だと言わざるをえない

自分の身に降りかかる最たる不幸はこれかと思う

 

 

 

『ざっくばらん いち』

物体の裏表から感じる印象について

 

本がここにあること:

本の表紙がこちらを向いているときと、表紙が向こうを向いている時

私の心が受け取る印象には明らかな差があった

そのかわり、背がこちらを向いているか小口がこちらを向いているかはほとんどもたらす印象に差はなかった

 

ペットボトルがここにあること:

私は観察し、表紙と言われるような側面が対になって2面あることに気づいた

サイコロでいえば1と6の関係である

そうするとなぜか、このペットボトルに対しては、

どちらを向いていてもかまわないという気がした

 

ノートがそこにあること:そこ:多少はなれた、腕を伸ばせる範囲内である

黒い表紙だと、なんとなく静の印象を受けた

どうしてここに出しっぱなしにしておくのか? とさえ感じた

中を開いて書きかけのページのまま置いてみた

すると、何も感じなかった

次に真っ白なページを開いて置いた

これについては、なぜか必要のない感じを受けた

予備、あらかじめ準備されているもの、

書かれるのを待つ期待感というものという印象をノートから与えられた

それがなんとなく、嫌な感じがした

 

『物体の裏表から感じる印象について』

 

 

元はといえば私は本を見て、

空間のどこに本があるかによって人間にとってはわずかで目に見えないものであれど

例の理科の教科書でやった「位置エネルギー」とかいう概念によれば変化があったのだろうと思い何度か高さを変えて持ち上げてみたりしたのである

本の表紙に空間の持つ力が水のように上から流れ込んでは四辺から流れ落ちていくのが見えた気がした

 

しかしそうして高さを変えて持ち上げるうちに、

いつのまにか受ける印象が違うと気づいて、それからは、

心に耳を澄ませるようなこの研究から、

自分の心の挙動を観察して、自分を知ろうという試みに変わった

観察しているうちに、これは万人に共通するものではないという印象を受けたからである

これは実に個人的でひとりよがりな自分自身の心の観察であり、

唯一自分が持てる客観性(とはいえ自身の範疇だが)だと感じられたからである

 

つまり私は端的にいうと、

ノートという無機物で能動的な動きを一切しないものからさえ、

圧力を感じるほど俗に言う『考えすぎる』タイプなので、

その相手が無機物ではなく人間であればなおさらであるということが分かったので

私個人においては有意義な実験だったといえる

 (これが世の中に驚くほど何も及ぼさないとしても)

例外を認める必要について

 

極論は苦手だ

例外を認めないのは意地悪だと思うし、融通の聞かない、

柔軟性を無視した言い分だから

物事を簡単にしようとする怠慢と傲慢のような気がする

 

しかし、物事を簡単にしようとすることは大事だ

 

私は、1+1=2と、4+5=9に同じ考え方を応用するし

わざわざ3×4と4×3を、一方は九九で、一方は足し算で考えることもない

ここに一種の統一性があるからこそ私の脳みそは体系的に物を学び、応用できる

やはりこれにも同じように、例外を認める必要があるのだろうと思われる

 

 

人の人を愛するという事象の謎

 

人の人を愛するという事象はなんだろう

私はなぜ、人が人を愛するという現象をうまく理解できないのだろう

 

私には何がわからない? 人を好きになるということ?

人に触れたいと思ったり、唇を重ねたいと思うこと?

 

確かに私のこういう感覚は、二次的であり、学習の賜であり、

あくまで実体験を伴わない空想上のものであり、

そうであろうという想像である

 

 

大きくなりたい

 

心の優しい人になりたいと思う

私はどうしても、視野が狭くなりがちで、

何かを見てはあーあと思う

そうではなく、世界を抱き締めるみたいに、

そういうこともあるよねと受け止める大きさがほしい

 

つれづれ。カレンダーの15日にトラップ

私の頭は基本的にはぽんこつなので、

お盆を挟むとそれまで継続していたことでもすっかり忘れる

そして頭がいつもの状態になると、「あれ? そういえば……」と思い出す

これは私生活だけではなく仕事も同じ

なので、仕事は金曜日に終わらせなくてはならないすべて!

私は月曜日になると、スケジュールに入れておいたTODOも、

「うーん、これスケジュールにわざわざ入れたけど重要でもなさそうやな」といって

朝からなぜか消してしまう

(こう自覚していても、本当に毎回「私、なんでこれスケジュールに入れたん?」と思う)

 

そして仕事をしながらぼんやり、

「あれ? 朝消したあの予定、やらなあかんのちゃう?」と思えてくる

これを繰り返すので私の仕事は、

やはり繰り返しになるけれども月~金でワンセットなのである!

 

土日だけで忘れるので、お盆など言語道断である

スケジュールに「15日にやるべきこと」を入れておいても、

私のお盆休みが15日までなので休み明けの初出勤は16日であり、

つまり15日のスケジュールに入れた私はバカなのである!

 

そしてこうして、私は自分で作ったトラップに引っかかり

苦しんでいるのである