思考の畔で

ニュースとか、生きていて思ったこととかなんでも、思ったこと書きます。無責任なことも言いますが、誰かの意見が聞けたら良いなと思います。

【本から】ル・コルビュジエ 建築図が語る空間と時間/加藤道夫 著

【本から】とタイトルをつけて、自分が感銘を受けた本の部分抜粋を自分用の覚書として、書き残したいと思います。

 

丹下健三は、大学卒業翌年1939年に論文「MICHELANGELO頌―Le Corbusier論への序説」を発表している。安藤忠雄ル・コルビュジエの後述の『全作品集』を常に眺めていたという

前川國男:『今日の装飾芸術』の翻訳
板倉準三:『都市計画の考え方』を翻訳、邦題『輝くとし』として出版
吉阪隆正:『アテネ憲章』『モデュロール』『モデュロール2』『建築を目指して』

そもそも、いつからが「近代」なのか? 政治史、社会史的にいえば、王政から市民社会への変化、例えばフランス革命を起点とする立場がある。また、産業の観点からは蒸気機関の発明と普及にもとづく産業革命を起点とする。哲学でいえば、デカルト的観念論とイギリス経験主義を統合したカントが起点とされる。それらは、いずれもおおよそ18世紀後半のできごとであった。
18世紀の末から19世紀にかけて、政治、社会、経済、知のあらゆる側面で急速な変化が生じた。本書でも18世紀後半に始まるこの変容を「近代」と考えたい。しかし、「近代建築」とよばれるものは、若干時間がずれている。例えば、構造の立場で、組積造鉄骨、あるいは鉄筋コンクリートへの変化をその起点と考える立場がある。それは、おおよそ19世紀後半以降と考えられよう。このずれは、建築が遅れていることを意味するものではない。そもそも「近代建築」とは、王政から市民社会へと転換する際に生じた「近代」化の過程で生じた問題、例えば歳への人口集中を解決するものであった。すなわち、「近代建築」は「近代」化の過程で生じた問題を解決するための、いいかえるなら、いかに「近代」を乗り越えるかという手段であった。その意味でポスト「近代」なのである。しかし、「近代」を支える理念、あるいはそれが依拠する価値観には18世紀後半の転換以降に大きな変化がなかった。これが「近代建築」の不幸である。ル・コルビュジエも、「近代」化がもたらした問題をいかに解決するかという問題に取り組んだ。

あえて、「建築図」という表象を通じてル・コルビュジエの「近代建築」を理解しようと試みる。その第1の理由は、表象がそれを生み出す社会というフィルタを通じて生成されるから、「近代」の特性や、個別建築の創造的特性も表象というフィルタによって純化されると考えたからである。つまり、建築図はその抽象性ゆえに建築そのものより理解しやすいという側面がある。抽象性の一つは、建築図が3次元空間を2次元に圧縮したものであるという特性である。建築という実体は当然のことながら3次元である。この3次元性は設計者の意図とは無意識に存在する。しかし、その設計過程において構想される3次元空間を2次元に抽出するには、残すべきものが選択される必要がある。ここに設計者の意図が入り込みざるをえない。

建築図は、これまで建築を実現する手段と考えられてきた。それゆえ、建築そのものより一段低いものと考えられがちである。しかし、現物が存在せず建築図だけが存在する計画も多い。未完のプロジェクトにあっては、そもそも現物が存在しないのであるから、建築図により作品を理解せざるを得ない。

また、1922年の「300万人の現代とし」計画のように具体的な場所をさだめた計画というより、計画理念を仮想計画として考案したものも多い、そこに見られる特徴は、「場所」に基づく「特殊解」より場所を選ばない普遍的な「一般解」という「近代」の志向性である

 

 

どんなものでも、人の頭を通して出てきたものに100%客観的なものはないよなぁと思って読んでいた。

 

5 建築図から見る空間
第1章から第3章では「空間」の視点から彼の建築図を理解しようと試みている。そのために建築図を「あるもの」の表現と「見るもの」の表現という二つの視点から捉えることにした。この見方は、古代ギリシアプラトンに遡り、ルネサンスにおいても建築家の描く図と画家の描く図との違いという形で議論の対象になったものである。絵画の分野では、それらの分離は、「近代」カの始まりとされる印象派の特徴とされる。例えば、宮下誠印象派の絵画を挙げ、「リアリズムの絵画においてはぴたり重なっていた「あること」と「見えること」が、ここでは、いわば分離しています」と述べている(※宮下誠『逸脱する絵画』法律文化社、2002、p82)。
その詳細は各章に譲るとして、本書での立場を簡単に説明しておこう。「あるもの」の表現とは建築そのものの形状や組み立てを大きさや形状を変えることなく表現することである。これに対して「見るもの」の表現とは、実際の建築の形状より、それがどのように見えるかに関心をもって「見かけ」を表現することである。見方を変えれば、「あるもの」の表現は、誰が見ても同一の情報が得られる。すなわち描かれる対象に関する正確な情報伝達を目標とする。したがって、建築家の主観性より客観性が重視される。これに対して「見るもの」の表現には、表現主体である建築家の建築の見方、いいかえるなら主体の主観的見方がより反映されており、作家の創造性と関連が深いといえよう。

 

ここまですべて、本編よりも前というかまえがきみたいなものだったんだけど、この本を現じあの形に至らしめた理由とかが非常に論理的に書かれていて面白かった。

 

もっと色んな本を手にとってみたいな。

あ、図書館いかないと。