思考の畔で

ニュースとか、生きていて思ったこととかなんでも、思ったこと書きます。無責任なことも言いますが、誰かの意見が聞けたら良いなと思います。

小さな目標をクリアし自分を褒めるということの本質

小さな目標をクリアして自分をそのたびに褒めると言うことがよく言われる

ちまたの記事には、自分に自信を付ける方法というのでそう紹介されているけれど、

結局それの何が良いかって、

何かにチャレンジしようとするとき、

「前で来たんだから次もできる」という心のよりどころが出来て、

「できる」と信じられるということろにある


「小さな目標をクリアして自分を褒めるうちに自信がつく」と言うだけでは、

その効果の半分も説明しきれているとは言えないのではないかと思う

他人の意見を黙殺すると言うこと

ごく簡単に言えば、

本人がどれだけ自分の意見が正しいと確信しているにしろ、

それが本当に真実であるか否かにはほんのわずかにも影響はしないと言うこと


その点に鑑みて、自分の意見と相反する意見を黙殺したり、

発言しようとする他人を黙らせることはすなわち、

自分の意見を誤りであったと発見する機会を失うだけでなく、

自分の意見が真実だった場合においても、

それが正しいものだとする理論を補強する機会を一生失うことと同義である

 

 

 

そんなことを最近読んだ本から学んだ

ものづくりをする以上、表現の自由言論の自由という課題から目を背けることは

絶対にできないと思うから

最近、笑っていないと思ったら、泣いてもいなかった

 

最近、笑っていないと思ったら、泣いてもいなかった

 

世界を自分中心で見ているのか?

大人が「妥協して生きていく者」だと定義するならばそうはなりたくないなどと青臭いことを思っていた私が、

このことを青臭いという表現を使って、

全力を尽くすことなく世の中に恭順している自分を受け入れている

このことを再認識できた今日は自分の人生において重要だったと思うけれど

 

私は今、諸問題に慣れて

一生懸命になり、繊細でありつづけたことを忘れてしまったような気がする

 

妹にはいつまでも「考えすぎ」だとか、

「あんたみたいに世の中のニュースをみて喜怒哀楽できるような人は逆に羨ましい」などと言われていた私が、

(ああ私、今妹みたいになっているな)と思っている

 

不感症になってしまっているこの精神を、

もう一度研ぎ澄ますのだと

自分の持って生まれた浄化作用は決して強くはないけれど

それを活用して精神を洗い流したいと思う

 

世の中で器用に生きていけるタイプでないことは百も承知だから

そうではないフィールドにいつづけるために、

他者との違いを明確に自覚していられる自分であるために

間接感受性

 

今日これまで、あまり話したことのない人と話をして、

年齢が近いはずなのに、こんなにも違うグラウンドにいる人なんだって、驚いた

 

そのときに感じた気持ちを率直に言い表すと、

自分がとてつもなく孤独で、もしかしたら、他の人が普通に甘受している幸せを

私は、知らないうちに避けて生きているのではないかということ

 

たとえば最近頭をかすめるのは、

他人を本当に愛したことのない私は、人生で大きな損失をしているのではないかということ

そもそも私は、

「まだ本気で愛せる相手に巡り合っていないだけの人間」なのか、

「誰が相手であろうと本気で愛することのできない人間」なのか、

それすらもわからないという状態に陥っている

多くの人が現代において、同じような思いを抱えているのではないかと思う一方で

私だけのような気もする

この問に答えが出たら、今よりも少し楽になるような気もする

今はただ、まだ巡り合っていないだけと思って、まだ見ぬ幸せ?があると思って、

可能性がどのくらいあるのかもわからない希望を信じているだけのような気がするから

 

もちろん、愛することは幸せだけではないことは知っているつもりだけど

やっぱり、「つもり」

 

物語を書く上で、他人に対する愛情は、鍵になる

だからこそ、私もその感情を知りたいのに、

私はどうしても、登場人物というフィルターを通してその気持ちを間接的に味わうことしかできない

間接民主制ならぬ間接感受性?

あまりうまくないのでニュアンスで受け取っていただくとして

ああでも、おさまりがいいからタイトルにしてしまおうか

 

浮き輪の上に

 

流されたくないのに、流されたくないのに

慢性の中に落ちていく

妥協の波に押し流されている人の中でもがいていると

私まで、泳げなくなっていく

 

杭を打っておかなかったのが間違いなのか

杭に巻きつけたロープ、そこからつながる浮き輪の上に

乗れたらいいのに

泳げない私は、もうすぐ息ができなくなってしまいそう

両生類に、なれるかな

今が、私というひとつの人間の、進化の過程?

 

私は、流されたくないのです神様

藁でもいいからください

 

前もこんなこと、書いたかな?

私はいつも、これまでの人生を後悔して生きている気がする

私の手には、まだ何もない

これまでの人生、本当にぼんやりと生きてきたんだと思う

その分を取り戻すために、30歳になるまでの日々を過ごしたい

一生後悔のない日々を送りたいと思うから

 

 

様々な事柄に触れると、自分のボーダーラインが見えてくる

ジェンダーについての考えはここまでだな、主義や宗教、社会政治に関してはここまでだ

そういうものが目に見えてくる

それによって対立する意見を持つ人もわかるし、同じような思想を持つ人もいるのが分かる

最近私と真逆の感性をもった人と出会って、

正直前までは、そういう人と出会えた時に本当に受け入れられるだろうかという不安があったけれど、

心からその人と話をするのが楽しいと思える

もちろんその人の人柄もあると思うけれど、楽しい

もっと毎日をちゃんと生きたい

 

前もこんなこと、書いたかな?

ちゃんと、大切に生きようと思った

 

ときどき、こんな世界の端っこにうずくまって

何かを思案したり、違う世界を思い描いたりしている自分を

ものすごく滑稽なもののように感じる

 

誰にも見られないまま、誰にも知られないまま

ひっそりと何かをしている自分

 

だからといって誰かに見せたいという思いは

それほど強くない

その前に立ちはだかる、批判されるかもしれないという可能性の壁が

私には高すぎる気がするから

 

でもそれをのりこえるために

いま、批判されてでもいいから世の中に出してみたいと思える作品を

作ってみたいと思う

 

本音を言うと、批判も恐れないでものづくりが出来る人は羨ましい

世間の言う「才能」に溢れてるっていう感じがするから

でも私は、ゴッホのおかげで才能なんてものはなく、どんな芸術も努力からできていることを知ることができたし、

点から与えられたものなんてなくてすべての芸術に知性が働いているということをピカソから教えてもらったから、

才能という言葉は好きではない

話がそれたけど何がいいたいかっていうと、

つまりは自分を自分で鼓舞してながら、ものづくりに励もうとしているってだけのこと

 

今日はとても、刺激のある一日だったから

幸せでした

一日一日をぞんざいに生きないで、ちゃんと、大切に生きようと思った